Category Archives: 奥沢の歴史を訪ねて

常磐姫の頃以前の奥沢②

奥沢城址(現浄土宗九品山唯在念仏院浄眞寺)  前回戦国時代迄の奥沢と早春のつどいレポートに鷺草伝説を書いたので、今回は奥沢城址(現浄土宗九品山唯在念仏院浄眞寺)についてまとめたい。 浄眞寺は境内12万㎡(3万6千坪)を要し、武蔵野の面影を残しているが、これは4代将軍徳川家綱公治世延宝6年(1678年)珂碩(かせき)上人が開山したとき、廃城となり荒れ果てていた奥沢城址を幕府から賜った為で、昔の様子を良く保存することができたと言える。現在は公園予定区画となっている。 現浄眞寺は旧奥沢城の内曲輪をそのまま寺域にし、本丸、二の丸、三の丸等に相当すると思われる区域に別れている。 一方外曲輪にあたるところは、言い伝えによると産業能率短期大学の辺りに北門が在ったと言われている。北門までの間は中丸、下中丸、北側の湿地帯は台場、影谷、山下、城向、鷺の谷、南側の台地から国分寺崖線にかけて城前、千駄丸、大坊野、…

奥沢城址の歴史的考察と土塁の調査①

各書物に記載されていることと区教委の発掘調査  淨眞寺周辺は世田谷区において区遺跡番号167奥沢城趾、同275城前遺跡として登録されている。 城前遺跡は以前から奥沢台遺跡の散在遺跡として認知されていたが、主に淨眞寺北側の墓域辺りに縄文早期・後期の土器破片がみつかっており、寺域の為発掘調査は行われてはおらず発見されてはいないが、数軒の住居跡が在ったと推定されている。ここは奥沢台遺跡と1㎞以内の距離なのでその子ムラであり、諏訪山遺跡等と4つの遺跡で一つの村落を成していたと考えられる。縄文後期になると集落が低い段丘に移って行く傾向がある。食料が植物中心から河川漁労中心へ移行した為であろう。 なお、九品仏淨眞寺が中世城郭であったことは、『新編武蔵風土記稿』『江戸名所図絵』に俯瞰木版画を添えて記されている。木版画は一部誤認が認められ正確さには欠けるようである。 奥沢城址については近代になり、『玉川村…

奥沢近辺の城址と地名の謎① 

荏原郡菅刈荘世田谷、古地名、鷺草伝説  奥沢城址と鷺草については色々書いてきたので、今回は少し当時の周辺の状況に目を向けてみたい。 先ず、住所的には『武蔵野国荏原郡菅刈の荘世田谷』と呼ばれていたようである。菅刈のしょうというのはそのように記録はされているが、どのような内容なのかはよく分かっていない。地名としては必要無いと思われるが、荘園などの名残りかもしれないと思っている。当時の武蔵の国では大和・奈良・平安時代よりの呼び方が続いていた。多摩郡、豊島郡、荏原郡が大きく、後は小さい郡が沢山あった。現在もあちこちにその名を残している。世田谷というのは「瀬田の谷」からきたと伝えられている。 その他古地名は多いが、当然各集落毎に呼び名があったであろうと考えられる。ただ、必ずしも全てが残るわけではないし、名がついた時代も長きにわたっている。詳しくは『世田谷の古地名(上・下)』を読むとよい(各図書館に在…

奥沢近辺の城址と地名の謎② 世田谷城址( ⅰ )

世田谷城主吉良氏について(ⅰ)  奥沢城に関しては多々述べて来たので、少し奥沢に縁のある世田谷区内に残る城址について調べてみたい。先ずは世田谷城趾。城主は吉良氏。源義家の子孫、三河の国守護職足利義氏は長男長氏(オサウジ)を三河国吉良荘西条城に、次男泰氏に下野国足利荘の足利宗家を継がせた。この足利宗家から後に室町幕府を開いた足利尊氏が生まれた。西条吉良は高家として十数代続くが、忠臣蔵の事件でお家断絶となる。 長氏の子の一人国氏は今川氏となったが、義元の時織田信長に敗れ、次の代の氏真で後北条氏に取って代わられた。長氏のもう一人の子義継の家系は東条吉良氏、或いは奥州探題又は奥州管領として暫く奥州にいたので奥州吉良氏とも言われたが、その後南北朝対立の行き掛かりで上野国に移った。足利治家の時、鎌倉公方足利基氏に認められ、世田谷に領地を貰い、世田谷城を造ったと言われている。 吉良氏は鎌倉公方、関東管…