Category Archives: 奥沢の歴史を訪ねて

奥沢の字(あざ)について①

奥沢の名前の由来、字朝鮮丸について  今回よりおよそ10回に渡って奥沢の歴史を一度総ざらいしてみたい。 私は元々歴史、特に古代史以前が大好きな趣味人で、定年退職後奥沢の郷土史について調べてみようと思い、「土とみどりを守る会」に入るとともに「世田谷区誌研究会」にも入会し会合に参加してきた。 今回は最近流行りの逆説日本史的に逆に遡って行こうと思う。只比較的新しい明治以降は取敢えずおいておいて明治初期から江戸時代に遡って行こう。 先ずは奥沢の名前の由来から。以前から世田谷七沢の一つで奥沢と言われてきたが、最近もう少し尤もらしい理由付けを見つけた。それは、奥沢本村・奥沢新田だけでなく、等々力に目黒区衾村から現緑が丘にかけて深沢と呼ばれていたが、丑川(九品仏川)流域を呑川と分離して「奥深い沢」ということにしたためという。 奥という言葉は必ずしも今でいう奥ではなくメインの道から外れ横道に入る時は奥と言…

奥沢の字(あざ)について②

奥沢1~3丁目、奥沢本村、奥沢新田村の成り立ち  奥沢本村に初めて農民が住み着いたのは 1570年、元亀元年に和田義盛の二男朝盛より8代の嫡流朝清が家臣12名と共に武蔵野国荏原の里即ち奥沢本村に来住したと伝えられている。二代長男朝澄は名主を務め、二男朝信は名主を務めた後諏訪大明神を守護神とし分家、そこを「大字(オオアザ)諏訪山」と称した。奥沢1-33-2和田家に今も残るというこれが「字諏訪山」の起こりである。江戸時代は天領となり、後に奥沢本村55石が旗本渡辺孫三郎勝(かつ)の知行地として与えられた。 奥沢本村の字(アザ、大字の下のより小さい集落単位、小字・地区等の別称もある)は「字開平(古くは朝鮮丸)」・「字稲荷丸」だけであった。 一方、奥沢新田村(禄高400石)は寛文2年幕府天領として奥沢村から分離独立するが、この二つの村が再び合併するのは明治9年のことになる。奥沢新田村は寛永年間(…

奥沢の字(あざ)について③

奥沢新田の字名とその由来  今回は奥沢新田村の字(あざ)を紹介する。現奥沢4~8丁目に当たる。字名の地図は毎回載せているので、今回は奥沢全体の詳しい地図上で現丁目と字名を対比させてみて欲しい。現5・4丁目から8丁目方向に紹介していくと、先ず奥沢神社の周り(現5丁目)は神社の旧名八幡様から名前を取り「八幡前」と呼ばれていた。この付近には縄文遺跡が点在している。 一方、目黒線の南側(現4丁目)は「赤坂(丸)」である。北に向かう傾斜面で赤褐色の関東ローム層が露出していたので付いた名前である。尚、奥沢本村「丸山」(現3丁目)との境界は銀座通りで、西側境界は八幡小学校に至る。また、九品仏川沿いは「鷺ノ谷(さぎのや)」と呼ばれ、旧「沖ノ谷」の西部を主体として自由が丘駅の西側まで続いていた。字名は鷺草が自生していたから付けられたのであろう。 現5丁目で「八幡前」の西側地域は「佛山」と呼ばれていた。昔その…

常磐姫の頃以前の奥沢①

歴史としての奥沢、縄文、弥生、古墳、江戸  丁度今地域風景資産の選定で、『奥沢城址をめぐる鷺草伝説』を推薦、主に鷺草伝説について書いたので、此処では歴史的事実について書いてみたい。   荒れ地は奥沢だけでなく武蔵野台地全体がそうであり、江戸時代でさえ農民は喘いでいた。最大の原因は地下水面が深く水が得られないことである。玉川地域の農民は自分のところを流れる呑川の水さえ自由に使えなかったことは意外と知られていない。街歩きで桜新町に行った時品川上水跡地見学の中で話す事が出来た。原因は大名屋敷と天領である大田区六郷の豊かな水田にあった。    やがて古墳時代になると関東は南北に有力な国ができ、大和朝廷の役人が仕切るようになった。その南の勢力の主が亀甲山古墳に埋葬されていると考えられている。その後も宝来古墳や観音塚古墳を始め多数の円墳をまとめて古墳群を作っている。この頃には奥沢では九品仏川(丑川ウシ…