不便だったけれど
 奥沢2丁目 勝賀瀬 佳久

第11号 2003.3.31

 私は、この地で生まれ、途中15年程地域外で生活しました。

 物心が付いたときには、空襲の真っ最中でした。夜、見上げた空に探照燈の光の筋と、光るマッチ棒を整然と並べた筏のような光の集合体が漂い、ガソリンスタンドの匂いが満ち、木にはアルミ箔のテープが絡み付いている光景が記憶に残っています。

 終戦で東京に戻り、我が家でもにわとりを4~5羽位飼い、南側の道路端にはささやかな畑がありました。小麦が小さな穂を付け、麦粒を噛んでいるとガムのようになるので、小麦は子供たちの口に消えていきました。夏はニイニイ蝉、アブラ蝉がうるさく鳴き、ミンミン蝉とヒグラシ蝉の声は彩りを添える位でした。ご近所にはヒマラヤ杉やシュロ、欅や杉の木が誇らしげに聳え立っていました。

 ギンヤンマ、オニヤンマといった大型のトンボも多かった。池のある庭が多く見られ、九品仏には大きな池があり、九品仏川が呑川まで流れていました。水草が流れにただよい、魚やエビガニの姿も見えるきれいな小川でした。

 日の出直後、日没前に九品仏の森をねぐらにするスズメの大群が上空を西から東、東から西へと通りすぎていきました。今は東京工業大学をねぐらにしているインコの群に変わっています。

 紙芝居の拍子木、金魚屋の売り声に耳をすませます。 鋳掛け屋*1、ラオ屋*2がリヤカーを止めて作業をしていました。汲取桶を積んだ荷車を引く馬が電信柱に繋がれています。これを見ているのも楽しみの一つでした。セミやトンボ採りに夢中になっていると、一日はあっという間に暮れていきました。昭和20年代の様子です。  定年で職を離れ、当時とは大きく変わった生活の中で、セミやトンボ採りに夢中になれた環境を懐かしく思い出しております。

*1[鋳掛け屋] はんだなどで ,鍋・釜など金属製の器具の傷んだ所を修繕する人。
*2[ラオ屋]キセルの雁首と吸い口とをつなぐ竹の管のことをラウと呼ぶことから,キセルの手入れ・掃除をする人.