60年前の奥沢
 奥沢2丁目 お話 中島 郁代
     聞き書き 杉村 捷子  

第16号 2004.7.17

 昭和15年本郷から奥沢へ、役人をしていた中島のところに嫁いで来ました。主人は一人で庭に芝生を植え、築山・池・藤棚を作り、何種類ものバラと木苺の垣、横板をひだのように重ねて門柱まで作っていました。梅・もみじ・椎等、共に74年過ごして来ました。畑や野原があちこちにあり今の交和会館の場所は駐在所で、ご近所には海軍さんが沢山住んでおられました。主人の母と妹が御近所づきあいを一手に、私は子育て。浴衣をほどいておむつを作る、大人の着物もすべて洗い張り又縫う、時にはふとんに作り替える、保存食も皆手作り、風呂は練炭で焚きました。原米屋さん、森田屋さんから毎日御用聞きが来てくれました。昭和14年義妹は嫁ぎ、義母は熊本の長男宅へ帰りました。戦争がひどくなり4子・5子が産まれ、配給を取りに行くのに御近所の方々をほとんど知らず往生しました。熊本風なのでしょうか「嫁は外出しないものだ」と3人からよく云われていました。

 忘れもしない昭和20年5月25日、最後の大規模な東京空襲で現在の奥沢保育園辺りから緑が丘駅までの一帯が焼夷弾の攻撃で焼け野原となりました。我が家の敷地内には6個の焼夷弾が落ちましたが幸運にも一部が壊れたくらいでした。職人が作ってくれた大きな防空壕に御近所の方々や縁のある人達と入り、B29が過ぎ去るのを待っていた事等忘れることができません。戦中・戦後我が家も御近所も、庭やそのお宅に面した道の側で野菜を作っていました。自分で作る野菜はとてもおいしいのですが石井さんのおじいさんにおしえて頂いてからは、人様にも少しわけられるぐらいに味も見た目もよく出来るようになりました。家の西側の小径や八百屋さんの酒匂さんの裏のあき地、保育園の東側の小径には疎開から戻った沢山の子供が毎日暗くなるまで遊んでいました。貧しいけれど活気あふれた時代でした。昭和40年頃皮膚科の林先生を受診した夫が、先生が八幡小に登下校の折垣根の木苺をよく食べたことが話題になり、「あ、お宅だったのですか」と治療費を少し安くしてくれたというたのしい話をしてくれた事もあります。

 孫12人ヒ孫9人に恵まれ、思い出の木々や緑に囲まれて、夫や義母に感謝しつつのんびりした日々を過ごしております。