昭和四年夏の終わり
奥沢2丁目 武村 仁  

第24号 2006.7.28

 昭和四年(1929)の夏の終わりに今の場所に、大橋近くの駒沢練兵場に隣接した内務省の二階建ての官舎から引っ越してきた。

 東京府荏原群玉川村大字奥澤452番地である。父、知雄32才、母、音羽25才、祖母、タネ62才、和子、3才、典子、1才、そして5才に近くなった私の六人家族である。

 私は2トントラックの荷台の一番前に坐って砂利道をゴトゴトとやって来た。随分と遠い田舎に来たものだと思った。今の感覚で言えば、小田急の秦野くらい迄行った感じである。全く武蔵野のど真ん中といったところで、線路向うの北西には林というより森に近い森林があって山鳩が鳴き、空にはトンビや鷹が舞っていた。門の前や敷地の西側は、草茫々の原野である。 敷地の北側は目蒲電鉄二子玉川線の開通間近の線路で、この年の十二月末近くに二子玉川から大井町まで全線が開通して大井町線と呼ばれるようになった。電車は勿論一輌だけの編成で、ボギー車ではなく、車は四個、ドア―は手動で開け閉めし、パンタグラフ一個のほかに二連のポールを屋根に乗せていた。ポールで走る姿は見た事はなかったが、二子玉川駅の方で使うのだと聞いた事がある。定員64名と車体の左端に書いてあった。何年か経って、自動でドア―が開閉するようになった時は、車輌の前後の運転席の窓の右側の下に『ドア―エンジン装置車』と書いてあった。大井町の次の下神明は「蛇窪」、戸越公園は「戸越」、旗の台は「東千束」、北千束は「池月」、緑ヶ丘は「中丸山」という駅であった。

 緑ヶ丘に一番近い踏切の北東には底なし沼があって、大雨の度毎に線路の土手が崩れ、その都度二三日は不通になった。古いレールを打ち込んでいたが、何十本打ち込んだか分からない程沢山のレールが櫓を組んで打ち込まれた。当初、「中丸山」の駅はこの辺に作る案もあったとの事である。

  北側の今の碑文谷の方向の碑衾町の谷畑台地まではずっと低地で、九品仏の池を源とする九品仏川は台風の度に溢れ、大きな湖水の様相を呈した。川はかなりの渓谷で、目高や鮒、沢蟹は沢山居た。

 庭には、立ち漕ぎの二連のブランコと滑り台があった。前の砂利道の両端には(どぶ)が掘られていて、門の所は板が渡されており、(そば)にはゴミ箱が置かれていた。道路に立つと、晴れた日には西に富士山が見えたし、太陽は大岡山の工大の台地から昇った。平屋(ひらや)の縁側からは、夏は丸子多摩川の花火を見る事が出来た。

 自由が丘方面に向っては「海軍村」と呼ばれ、海軍の将校の家がかなり点在していた。また、線路の北側は、ドイツ村と呼ばれていた。

 ここに引っ越してきてから何年もの間、毎晩、狼の遠吠えを聞いた。父や母は「今時、東京に狼がいるはずがない。犬の遠吠えだ」といっていたが、タネお婆さんは「知雄はああいうけれど犬ではない。あれは狼だ。(まさし)!夜は一人で外へ行ってはいけない」と私には言った。あれから七十何年も経って、碑衾(ひぶすま)町の台地(今の自由が丘三丁目)に日本狼を飼育していた人がいたことを知らされ、感無量の思いをした。  何年も経って、分かった事がもう一つあった。裏の電車が開通して、かなり、かなり遠くから、ガタガターン!ガタガターン!という線路の繋ぎ目を渡る電車の音が聞こえるのに、行き過ぎると急に聞こえなくなるのが、子供心に不思議でならなかった。十何年経って高工 (今の大学)に通うようになって、それが 「ドップラー効果」というものだと知って感激したものである。

(西野定正氏提供)