奥沢の今昔
奥沢2丁目 原 忠男

第40号 2010.8.1

 奥沢はその昔、荏原郡玉川村大字奥沢といい、世田谷七沢-北沢・馬引沢(現駒沢)・廻沢(めぐりさわ)・池沢(現 池尻)・ 野沢・深沢と奥沢-の一番奥にあった沢で、奥沢と名が付いたそうです。奥沢村は九品仏川を境にして、北と東は碑文谷と(ふすま)村(現自由が丘と緑が丘)に接し、南と西は等々力村に接していました。

 奥沢本村(ほむら)の愛宕塚から人骨や仏像が発見され古代の遺跡と実証され、現在和田家で管理されているそうです。この和田家は源頼朝の重臣である和田義盛の子孫で、家臣12名とともにこの地に来て定住されたそうです。

 十五世紀後半、玉川村は吉良領となり家臣の大平出羽守が今の浄真寺の地に奥沢城を築きました。城 は単純な土塁造りで、小田原北条氏の直轄下にありましたが、北条氏の滅亡とともに「さぎ草伝説」の秘話が残りました。

 その後、1658年には現在の四丁目から八丁目に新たに奥沢新田村ができました。明治五年、奥沢本村の戸数は26戸住民は145人、また新田村には逃れてきた武士が姓を変えて住みつき、戸数113戸住民666人と記されています。明治九年、本村と新田村を合併して奥沢村となりました。

 中央部の大地は山林と竹やぶが点在する他はほとんどが畑で、九品仏川沿い一帯の低地は水田地帯で、北側の地は清水が小川となって流れ、フナやハヤなどの魚が泳いでいました。その後、九品仏の裏に池を掘って土を運んで低い所を埋めましたが、戦後はその逆になって池は埋められてしまいました。  明治四十年、渋谷-二子玉川間に玉川電車開通、大正七年頃村の有力者が交渉を始め、大正十二年三月目蒲線が開通して市街化は急速に進みました。同年九月関東大震災に直面、しかしその後 海軍村・ドイツ村ができ戦後復興もなされ、目蒲線は目黒線になり街並も変わりはしますが、緑と平和の街であることは何と喜ばしいことかと感じ入っております。