父と奥沢・海軍村
奥沢2丁目 西野 裕久

第61回 2015.10.22

 奥沢の、それも海軍村のこのエリアをこよなく愛していた大正11年生まれの父 西野定正が、突然あの世に旅立った。

 海軍の将校の子弟として、奥沢のこの一角に住むようになったのは、父親・西野定市が海軍の武官としてドイツへ長期出張していた間、母親の実家にいた関係から福岡県嘉穂郡飯塚町立・立岩尋常小学校の生徒であった父が、定市の東京転勤により八幡尋常小学校2年に編入した時であるので、昭和4年ころからと思われる。

 以来、自身の転勤した数年を除き、ずっと緑ゆたかな、静かな環境にあるこの街で、さまざまな方々とふれあいながら、生を全うした父であった。

  奥沢の古い話をする時に、必ず話題となるのが、奥沢駅前にあった「明電舎グラウンド」のことであった。野球好きであった定市に連れられて、野球観戦をした父も大変な野球好きであった。当時まだプロ野球の草創期の時代、社会人野球は、スポーツの花形だった。強豪チームであった明電舎は、工場所在地の大崎からさほど遠くないこの奥沢駅前にグラウンドを構えており、父は、藤倉電線、日本コロムビアといったチームとの試合を、非常に楽しみにしていたという。

   みどりに関して申し上げれば、当敷地内に赤松が三本ある。これは、昔からある松で、父は、これだけは、そのまま残そうと、家の建て替えの際にも、それが大前提での設計とした。そのため、この松を頼りに、いまだに、わが家へ訪ねてくれる人もいるほどである。

 家の建て替えといえば、一つ問題となったのが、家の前にある「海軍村跡」の碑であった。区の制度を活用して、道路部分を区に提供することとなったが、区の担当者の話では、碑は公道には設置できないとのことで、一時は、奥沢2丁目公園に移設という話になった。しかし、父は「あそこでは、海軍村とは言えないだろう」と譲らず、結果として、敷地内に引き入れる形で、残すこととなった。これも、海軍村育ちの父の誇りのなせるわざだと思う。

 交通至便ながら、環境のすぐれた奥沢が、これからも維持されてゆくことを、父もあの世から見守ってくれるにちがいない。