奥沢物語について
奥沢2丁目 鈴木 仁(事務局長)

第64号 2016.8.10

 大谷修二さんが亡くなったとお聞きしたとき、もう一度お会いししておけばよかったと悔やみました。

 大谷さんとお会いしたのは、2007年8月に事務局長の故柳島尚子さんと、奥沢の歴史調査でお話を聞きに伺った時でした。当時会では地域の古老を訪ね奥沢の歴史資料や昔の地図を作ろうとしていました。

 特に昭和5から10年頃の街の様子をお聞きしましたが、小学生の頃を実に詳細に記憶しておられたのには驚いたものです。家や店の名前だけでなく、住宅開発や海軍村の始まり等当時の奥沢の歴史状況も教えてくれました。アセチレンランプの明かりとその独特の臭いが立ち込めた奥沢銀座通りの弁天市の賑わいを手に取るように生々しくお話しされたのが思い出されます。また目黒線開通直後の住宅開発に、湧き水の豊かな土地柄を生かした井戸堀のために、土管屋さんや、ポンプ屋さんが奥沢駅周辺に先ずできたそうです。また奥沢の駅前には車屋の「しん」さんがいて海軍村を往復していたそうです。

 大谷さんは八幡小学校の卒業生で、当時校庭にあった「誉の桜」を見ながら育った方です。小生の頃にもあり、太く枝を横に張ったどっしりとした姿を覚えています。「誉の桜」は、日清と日露2回の戦争に徴兵され、命からがら帰国した鈴木仙太郎さんが、記念に植樹し命名されそうです。しかしこの桜は、新校舎建設で昭和33年に切られしまいました

 この話を聞いた大谷さんはひどくショックを受けたそうで、「奥沢物語」を書くきっかけになったそうです。「奥沢物語」は、奥沢神社編では吉良氏、大平氏や鷺草伝説、奥沢の街編では、住人、子供の様子や、鉄道等の詳細な資料や聞込みによる歴史調査をベースにした奥沢の形成と近代化の物語と言えます。

 近代化の過程で地域固有の文化や教育を捨て去ってきた社会に強い憤りと悲しみをおぼえ筆を執った著者の、愛する奥沢への切ない気持ちが胸に迫りました。