九品仏池の歴史資料を探して(1)
奥沢4丁目 野口 英男

第73号 2018.10.25

 九品仏池に関して、入手可能な地図や書籍などに、どの様に残されているかを探してみた。

 「土・まち・みどり通信」の第36号(2009.8.3)[資料①]では、「九品仏池の一生」として、「1.九品仏池の誕生」「2.昭和27年ごろの九品仏池」「3.九品仏池の消滅」がまとめられている。

1.九品仏池の誕生前

 世田谷区が発行している「世田谷古地図」[資料②]は、明治14年当時、昭和4年当時、昭和14年当時、昭和30年当時がある。九品仏池は、昭和4年当時の地図では存在しない事が確認できる。

 世田谷郷土資料館発行の図録「地図で見る世田谷」[資料③]16ページに1万分の1地図形「東京近傍十九号 碑文谷」(明治42年測図・日本帝国陸地測量部発行)があり、九品仏川や呑川の流路がよくわかる。九品仏川の源流は浄真寺の西側になっている。九品仏池はない。

2.九品仏池の誕生

 世田谷古地図[資料②]の昭和14年(1939年)当時では、九品仏池があり、同昭和30年(1955年)当時では、池の中に島があることが確認できる。

 「土・まち・みどり通信」第36号(2009.8.3)[資料①]では、九品仏池の誕生について、「湿地であった九品仏川の周辺を客土して畑や宅地を作った」とする説と、「東急東横線自由が丘駅の高架化するための土盛りをするために池を掘った」との説が紹介されている。それぞれの説を調べてみた。

2-1「湿地であった九品仏川の周辺を客土して畑や宅地を作った」説

 玉川全円耕地整理組合が昭和30年7月に発行した「耕地整理完成記念誌 郷土開発」[資料④]の1〜9ページに「耕地整理沿革概要」があり、大正12年1月15日から昭和29年7月31日までの記録が掲載されている。昭和7年9月6日に「等々力北区第一工区工事着手(浄真寺の北側に在る深さ一丈以上の不毛田約八町歩の一部を掘さくし、掘さく土を以て埋立を行い畑地に変換した。掘さくの跡が現在いわゆる九品仏池で面積3,440坪である。請負人花ノ枝喜代松、請負金30,100円)」とある。