戦前から戦中の奥沢の思い出
奥沢2丁目 北川 典子

第74号 2019.2.12

 私は昭和九年奥沢三丁目で生まれ二歳頃二丁目に移りました。先日参加した「まちあるき」はかねがね気になっていた奥沢一帯の地形を地図と解釈を伺いながら自分の足で確認出来、幼い頃の思い出も湧き出し大変有意義な町歩きとなりました。

 奥沢やその周辺が昭和の初め頃に計画的に作られた町であることは知っていましたが、それ以前はどんな風景であったかを想像するのは私の楽しみになっています。直角に区画された奥沢の町ですが奥沢駅前から東南に斜めに伸び下がって上っている一本の道はいかにも目的のある道という感じです。その道を横切って右側坂上に私の父方、左側に母方の親戚の家がありました。両家には従姉妹たちがいましたのでよく遊びに行きました。斜めの道を横切るとき駅から下って又上がった先がどうなっているか長い間気になりつつ過ぎていましたがあるとき、五歳頃でしょうか祖母に連れられ従姉妹たちと川原で摘み草をした記憶が蘇りました。斜め道の上った向こうは呑川の川原へと下っていったことです。当時の川原は広く土手も緩やかで摘み草はのどかで楽しい思い出となっています。

 奥沢駅とその周辺は戦後まで奥沢町の中心でしたから生活品はすべて駅の周辺で求めていました。奥沢市場の魚屋さんは毎日注文取りにきていましたし御用聞きの人も来ました。お豆腐屋さんのラッパも聞こえ、牛乳は早朝に配達されていました。奥沢駅から今の自由通りをきと方向に少し行くと奥沢幼稚園があります。昭和十四年に入園し、当時は一年制でしたので十五年に卒園、八幡国民学校に入学しました。学校の帰りに園の前を通りかかると懐かしくなり何度か立ち寄り、つい遊具で遊び円にご迷惑をかけたのではないかと思っています。このように八幡国民学校に入学してからは長い通学路を遊び遊び帰ったのが懐かしい思い出となっています。昭和十六年、第二次大戦が始まるまで町の暮らしはのんびりしていて大森海岸での潮干狩りや上野動物園での写真が残っています。父が日曜日にはテニスをしていたのでいつもコートまでついて行きました。自由が丘と緑ヶ丘の間の大井町線のガードをくぐり九品仏川(今は緑道)の木の橋を渡って少し先に父の会社の野球場とテニスコートがありました。今、野球場は山田電機にテニスコートはマンションと目黒区の緑ヶ丘文化館になっています。この九品仏川沿いは当時、護岸はなく雨が降るとしばしば川が溢れました。川沿いに歩けるのは目黒区側のある部分でそれでも危ないので歩いた記憶はありません。緑ヶ丘駅前も雨になると川の水が溢れ橋の上を覆いました。この駅前は店などありませんでしたが紙芝居屋さんが来ました。拍子木を鳴らして小父さんが来ると子供たちは坂を駆け下りて飴を買いそれを舐めながら紙芝居を楽しみました。

 昭和十六年十二月に第二次世界大戦が始まり翌年二月にシンガポール陥落を祝うちょうちん行列がありました。奥沢駅から銀座通りに向けて提灯を下げた列がぞろぞろと歩き、終わって子供たちはゴムボールを一個貰いました。この頃から物資が不足してきたようでボールは子供たちへの国からの最後の贈り物となりました。その前ね、政府は隣組制度を作り、回覧板を発案し、トントントンカラリと隣組の歌も放送していました。自由な市民生活が何事も隣近所と歩調を合わせなければならなくなり母は嘆いていました。千人針や慰問袋作りなど銃後の守りが強調され、私も諏訪山通りで千人針を手にした小母さんの白い布に赤糸の結び目を刺したのを憶えています。子供達も銃後の少国民ということで「欲しがりません勝つまでは」という標語を唱えさせられました。実際、町の店先から物がどんどん消えて行き、或る時、お菓子屋の店先の何も入っていないガラスの菓子ケースを眺めているとお店の小母さんがバターボールをくるむ紙を何枚か呉れました。紙の模様と蝋紙の匂いがバターボールを舐めた気持ちにさせてくれたものです。物が不足してきても子供たちは遊びの天才らしく、当時砂交じりだった校庭が簡易舗装になったこともあり休み時間には女の子たちでいろんな遊びをしました。ゴム縄飛び、歌を歌いながらの縄跳びまわしなど校庭での遊びに夢中でした。八幡様(今は奥沢神社)の境内でも遊びました。当時はまだ樹木が低くて境内は明るく子供には広いところでしたからハンカチ落とし、かごめかごめなどの遊びができました。当時の八幡さまは戦勝祈願をしたり、出征する人の武運長久を祈り、奥沢駅までお見送りする身近なお社でした。この頃でしょうか英霊を駅でお迎えすることがあり、クラスの家族に英霊が帰ってくるからと奥沢駅や九品仏駅へ先生に引率されて行き、遺骨を持った人を先頭に列をつくり級友の自宅まで歩きました。  昭和十九年になると敵機が都市を襲う事態に備えるため、防空頭巾を持って登校し、灯火管制で街も家も暗い夜となり、街角には防火用水が置かれ、戦争が身近に迫っていたのです。夏休み前のある日、私は教壇の先生のそばに行き「私は縁故疎開です」と言っていました。自分ではその意味がわからなかったのですが先生に伝えるように母に言われたのでしょう。その年の六月に政府は都市の国民学校の児童を予想される空襲から守るための学童集団疎開という法案を決定し、三年生から六年生の児童を対象としましたが、地方の親戚などに引き受けてもらえる児童は縁故疎開もできたのです。父が転勤で満州に居たので母は二年生の弟と私を「縁故疎開」に決め、このことを私は先生に伝えていたのでしょう。子供には理解できない激動の中、大人たちの言われるままに母の実家のある和歌山へと終戦一年前の奥沢を離れました。