九品仏池の歴史資料を探して(2)
奥沢4丁目 野口 英男

第74号 2019.2.12

2-1「湿地であった九品仏川の周辺を客土して畑や宅地を作った」説(続き)

 「地図で見る世田谷」[資料③]の44ページに3千分1地形図「41号ノ4 等々力」(昭和13年8月測図・日本地形社発行)があり、地図の説明文の中に、「寺の北に接する九品仏池は、昭和7年に着手されたこの辺りの耕地整理事業の際、埋め立て用土の掘削跡を利用して造られた。本図では地元の人々の出資による貸しボート屋の所在が確認できる。」と記述されている。また、九品仏池の写真があり、「『土・まち・みどり』通信第37号(平成21年11月27日発行)より」との注釈がついている。105ページの「第日本職業別明細図 世田谷区」(昭和10年12月東京交通社発行)があり、九品仏公園池ボートクラブを確認することができる。

 世田谷区立郷土資料館発行の図録「世田谷の土地−絵図と図面を読み解く−」[資料⑤]では、114ページに「玉川全円耕地整理事業」の「等々力北区」の図面があり次の説明文がある。「第一工区の仮換地図である。池には中の島が設けられ、大田区の洗足池にならってボート営業を行っていた。」と記されている。また、九品仏池の写真が掲載されている。

 世田谷区が平成4年に発行した「世田谷百年史[上巻]」[資料⑥]の142ページに「等々力の九品仏池」と題するコラムがあり、池は「昭和のはじめに起こった“ゴミ公害”対策の副産物として造られた」と記述されている。東京府が等々力の空き地(現・等々力6丁目付近)を臨時のゴミ広場に選んだ。運び込まれたゴミの悪臭やゴミを焼く煙などの問題が発生し、地元住民はゴミ広場のの撤去運動を行なった。この結果ゴミ捨てはひとまず中止となった。「ひとまず」という但書が気に入らなかった住民たちは、この空き地を掘って大きな池にしてしまうことを考えついた。掘り出した土は、当時実施中だった「玉川村耕地整理事業」の埋立土に使えるとし、直ぐに実行に移した。池は中央に約630㎡の島を置いた13,00㎡ほどのもので、3m平均の深さに掘り下げた。池はできあがり、地元の人々の出資で貸しボート屋も釣堀も作られたと書かれている。

2-2「東急東横線自由が丘駅の高架化するための土盛りをするために池を掘った」説

 JTBパブリッシングが2008年に発行した「東急の駅 今昔・昭和の面影」[資料⑦]の、48ページに自由が丘駅の記述がある。「駅のある場所は、呑川への支流の九品仏川があり、谷の底となっていて、かつて周囲は大根畑であった。開通当時の駅名である九品仏は、南西にある九品仏(浄真寺)によるものである。

 昭和4年(1929年)に目蒲電鉄の大井町線が二子玉川から東進して立体交差する必要が生じたので、東横線が盛土によりオーバークロスすることとなった。」とある。

 1972年に東京急行電鉄が発行した「東京急行50年史」[資料⑧]では119ページから始まる「大井町線の建設」に次の様な記述がある。

 大正12年11月1日に目蒲線を全通させた目黒蒲田電鉄は、いよいよ大井町線の建設に取りかかることとなった。折から東京横浜電鉄では、東横線の一部として丸子多摩川〜神奈川間を開業し、さらに丸子多摩川〜渋谷間の建設に着手しているときであった。(中略)東京横浜電鉄が渋谷〜丸子多摩川間をため、将来両社が合併するという前提で、この大井町線の着工を遅らせ、土工定規・建設定規・車両定規および橋梁の工事方法などを東京横浜電鉄に合わせた。

 また、目黒蒲田電鉄は、東横線との交差について東京横浜電鉄と協定を結んだ。この協定内容には、東横線九品仏駅(現自由が丘駅)付近を高架にして、その下に目蒲線支線である大岡山〜二子玉川間の路線を敷設すること、東横線九品仏駅を両線の連絡駅とすること、駅名変更等の内容であった。

 「昭和2年8月に開通していた東横線は、当時、九品仏駅に向って上下線とも下り勾配であったが、これを二子玉川線(現大井町線)のために5.79メートル高上した。高上による勾配変更区間は延長520メートルで、他の工事に先がけて、昭和4年4月1日に竣工した。同年10月22日九品仏駅は自由が丘駅と改称された。」とある。

2-3「奥沢物語」[資料⑨]の69ページに「東横線は九品仏(現自由が丘)駅に向った下りの勾配であるのを、これを土盛りして、最高5.70m高上げして、約520mの土堤を築かなければならない。この工事に必要な大量の土砂は、先ず、九品仏川、呑川の川底を掘り下げて確保した。この両川とも、以前は両岸とほぼ同じ面まで流れた底の浅い川であった。土砂はそれでも不足した。その分を東横線代官山のトンネル掘削工事で出た残土を持ってきて充てた。所が、これでも不足を生じた。その不足分は、土地を掘り起こして確保した。その場所は、目蒲線が東横線と並行して走る辺りから、環八の際(いわゆる大踏切)(現奥沢4丁目35、玉川田園調布2丁目3,4)にかけて、目蒲線の東側に大きな地溝(空掘)が掘られた。長さ南北150m、幅東西10m、深さは南に行くにつれて徐々に深まり、環八に接する点で最深8mにも達した。その大濠の土も最後の仕上げに使用されたと思う。」とある。

「耕地整理完成記念誌 郷土開発」[資料④]によると、九品仏池の掘さく工事は昭和7年9月からで、立体交差の工事は、3年半近く前の昭和4年4月に竣工している。このことから、高架化のために池が掘られたとする説は可能性が低いと思われる。

3.九品仏池の消滅

「せたがや100年史 [上巻][資料⑥]142ページのコラムで「やがて土地は東急に売却され、昭和30年、東急文化会館の建設で地下を掘り下げた土がここに運ばれ、池は埋め立てられた。」と記されている。

「地図で見る世田谷」[資料③]の44ページでも同様な記述がある。

4.資料の所在について

 資料①は、土とみどりを守る会のホームページ(URL://tsuchimidori.net/)の「ニューズレター」で閲覧可能。②は世田谷区民会館内の区政情報センターと世田谷区立郷土資料館で販売されている。④は区政情報センターで閲覧可能。③⑤⑥⑦⑧⑨は世田谷区の区立図書館が所蔵している。