奥沢と「戦争」を考える
奥沢2丁目 田口 美津子

第77号 2019.10.23

 奥沢に生まれ育ち、早いもので78年になりました。良くここまで生きて来られたという思いです。私が生まれてわずか6ヶ月で、父に召集令状が来て、戦地に旅立ちました。母は私と2歳の姉と、病身の母方の祖母と、借家であった家で暮らしていました。家主がこれを売るとの事で、父が借金をして買った所でしたので、母は大変でした。

 母は私たちが生きる為に、朝の新聞配達など無理をしたせいで、結核に罹ってしましました。医者には「人は生まれ育ちにより、他人にできるから自分もできると思ったら大間違い」と言われたそうです。ある日その医者から療養所に入るように言われ、母は私達姉妹に「療養所に入る事に成るかもしれないが、二人でやって行かれるか?」と言いました。しかし当時は療養所も満杯で自宅療養になり、逆にその事が良かったように思われます。結局10年掛かりでしたが、すっかり幹部も固まって完全に治りました。医者の先生も「良く治ったものだ」と驚いていたそうです。これは精神的な事も伴ったせいかと思います。

 昭和20年5月にこの辺りにも空襲があり、父の友人から東工大(東京工業大学)に逃げる事を勧められました。母と姉と私の3人で東工大へ向かう途中、私は母の背に顔を伏せて居りましたが、怖いもの見たさに顔を上げると、横一列に何機もの飛行機が。それらが次から次へ「ゴーゴー」と音を立てながら飛んで来るのを見て、それは恐ろしかったです。東工大にも大勢の人が詰め掛けていて、その人混みに入って行く方がむしろ怖いので結局は自宅に戻りました。

 近所の家に焼夷弾が落ち、わが家の井戸から「バケツリレー」で消化に当たりました。そのお隣の海軍中将のお宅に行きましたら、そこの中将さんと奥様の二人で、各部屋に落ちた日を消されたとの事。それは何日か前に、小田原の旅館で海軍幹部の会議が有り、その時の経験が行かされたとの事でした。

 とにかく戦争が無い世界で有る事、奥沢の町が静かで美しく、優しい町で在り続けたいと願います。