みどりと奥沢
奥沢2丁目 柿坪 精二

第77号 2019.10.23

 奥沢二丁目に両親が移住して来たのは、約70年前、終戦後の1950年。私は1954年生まれなので、子どものころ(1960年前後)の奥沢の様子が目の奥に残っています。

 当時から緑のあふれる地域で、家の周りには巨木が何本もあったほか、畑も点在しており、そこで採れた野菜を農家のおじさんが毎日売り歩いていたのを覚えています。目蒲線の線路の近くには空き地もところどころにあり、秘密基地として遊んだ覚えもあり、また、周辺の家はほとんどが生垣で仕切られた庭木のある平屋でした。

 夕方になると、九品仏浄心寺の鐘の音が聞こえて、それが遊び時間終了の合図となって、帰宅していたのを覚えています。当時、道路は、現在のようにすべて塗装されていたわけではなく、横道や細い道はまだ土の道だったため、ビー玉やメンコ、缶蹴り等の遊び場には困らない状況でした。近くを通る大井線(現在の大井町線)も2両編成で、線路脇の土手で虫取りや土筆取りができて、のどかな雰囲気でした。リヤカーを引きながら石焼き芋や竿竹を売っていたおじさんも記憶に残っています。

 変化がおこったのは1964年の東京オリンピックで、駒沢競技場の開発を始めとして、環七、環八の整備と共に、奥沢地域の道路も一気に舗装され、周辺の家も2階建てが徐々に増えていきました。住居表示が変更されたのもこの頃だったと思います。

 私は社会人位なってからは転勤族でしたが、両親の奥沢の家には時間を見つけては会いに行っていましたので、少しずつモダンな街並みになっていく奥沢の変化は感じていましたが、7年前に戻って再び住むようになってゆっくりと観察してみると、これまで地域が守ってきた独特の雰囲気の本質は昔と変わらず、緑あふれる環境は維持されてきたことを改めて感じて安心しました。

 最近は相続等、やむを得ない理由で土地分割が行われて、一軒一軒の家の大きさは小さくなって来ていますが、それでもこの地域はみどりが豊富で、東京でも稀にみる雰囲気の良い住宅街だと感じています。新しい東京オリンピックが来年迎えますが、この地域の良い雰囲気を残し、緑の多い住みやすい住宅地域を守っていく努力をしていきたいと思っております。