奥沢の小字(こあざ)について その1

 今回よりおよそ10回に渡って奥沢の歴史を一度総ざらいしてみたい。
 私は元々歴史、特に古代史以前が大好きな趣味人で、定年退職後奥沢の郷土史について調べてみようと思い、「土とみどりを守る会」に入るとともに「世田谷区誌研究会」にも入会し会合に参加してきた。
 今回は最近流行りの逆説日本史的に逆に遡って行こうと思う。只比較的新しい明治以降は取敢えずおいておいて明治初期から江戸時代に遡って行こう。
 先ずは奥沢の名前の由来から。以前から世田谷七沢の一つで奥沢と言われてきたが、最近もう少し尤もらしい理由付けを見つけた。それは、奥沢本村・奥沢新田だけでなく、等々力に目黒区衾村から現緑が丘にかけて深沢と呼ばれていたが、丑川(九品仏川)流域を呑川と分離して「奥深い沢」ということにしたためという。
 奥という言葉は必ずしも今でいう奥ではなくメインの道から外れ横道に入る時は奥と言うそうである。いずれにしろ呑川の下流から見ての話で、鎌倉道を考察すると昔の人々の生活の流れが見えて来るがこれも後で考えたい。
 奥沢本村に小字は元々朝鮮丸しかなかった。開平とも呼ばれるがそのいわれについては全く分かっていない。朝鮮丸は朝鮮山ともいい、大音寺を南端に細長い山が南北続いていたが、北部は開削されて住宅と奥沢中学校校庭になっている。
 昔大音寺下迄多摩川の入り江が入り込んでいて、ある時朝鮮の船が難破してるのが見られたからと伝えられている。本村にはこのほか子安稲荷跡付近に稲荷丸という字が出来るが昭和の地図に載っているのでずっと新しい。 それぞれの土地や遺跡については後日触れたいと考えている
(赤松)

(江戸時代の奥沢[出典 世田谷の地名下巻]