奥沢近辺の城址と地名④ その他の城址(ⅲ)

 今回は世田谷城址、奥沢城址以外でその存在が伝えられている城址(砦)を紹介したい。
 世田谷区には城址又は砦址と伝えられている物が十数余存在する。そのうち遺構として土塁等が残存しているのは世田谷城址と奥沢城址のみである。
 世田谷城址の周りには城址又は砦跡として、烏山城址(砦)、船橋砦、赤堤砦、三宿(多聞寺)砦、弦巻砦、大蔵城(砦)等があるが、世田谷八幡、勝国寺にもいざというときは砦の役目をすると考えられている。
 八幡神社は応神天皇・宇佐神宮を総本宮とするが、源氏が守り神とした為関東で勢力を強めた源氏によりたくさん建てられた。世田谷区も足利氏系の吉良
氏や源氏出身の徳川氏等の支配を受けているので、50社中12社と多い。神社の系統については別の回にまとめる。
 世田谷南部を護る奥沢城周辺を見てみると、南條氏の小谷岡城(兎々呂城・深沢城)、長崎氏の瀬田城(行善寺城)、野毛砦(等々力城)、大平砦、朝鮮丸砦等が伝えられているが、最初の2城以外は不確実である。
 三宿城(多聞寺城)については築城年代・築城者とも一切不明である。城域についても多聞小学校の辺りということしかわかっていない。しかし、北沢川と烏山川とが合流し目黒川になる崖線の端に当たり、築城の適地であるとみられるし、明治42年陸地測量部一万分の一地図に土塁と思われる記載が見られるので、砦が存在したことは間違いないと考えられる。
 この砦は世田谷城に近く出張りの砦と考えられるので、記録には残されていない。ただ、ここにあった多聞寺は赤堤砦址の善性寺、砦址の円行院が、砦址といわれている勝国寺の末寺であることからも世田谷城域外砦の可能性が高いと考えられる。
 北、東、南の三方向に川が流れ崖線を作っているので、後は西の尾根であるが、現在も三宿神社と三宿の森公園脇に深い切り通し道があり、少数兵力で
防御が可能となり、かなり要害と言えそうである。
 この近くに池尻という地名が残っており、縄文海進の後の海退時にできた塩水溜まりが淡水池になったと伝えられているので、築城当時は水田というより池ないしは沼地であったのではないだろうか。ち なみに貞亭元年(1684年)には池尻村と代田村の新田開発が行われている。
 瀬田城は後北条氏の家臣長崎隠岐守重高が永禄年間初期に築城した城である。
 長崎氏は平姓で、鎌倉内管領長崎四郎左衛門の末裔で、三郎左衛門重忠のとき北条早雲に属し、豆州那賀郡姪島1万貫の地を領した。子孫は代々北条氏に仕え、4代目が重高になる。長崎土佐守は永禄4年長尾景虎・上杉憲正の小田原攻めで籠城して功をなし、感状を得ている。
 重高は小田原の道栄寺を瀬田村に移し行善寺とし、天正8年北条氏滅亡後は瀬田村に土着した。子孫は代々名主・年寄役を世襲した。城域については行善寺の辺りといわれているがはっきりしない。新編武蔵風土記稿には「今城跡を伝えず」と書かれている。南北は急峻な崖であるが、東西は平地が続いている。
 しかし、明治40年の測図及び大正6年の測図から考えると、北側にある半島のくびれに当たる部分以外は急峻な崖に囲まれていることがわかり、このレモン型の台地全体を少ない兵力で守ることが出来る。くびれ部の幅が狭く、騎馬部隊の車懸かり戦術が用いにくく、側面から矢を射られ易い。
(赤松)

三宿砦址(多門寺砦址・現三宿神社)
瀬田城址(現ゴルフ練習場)