奥沢近辺の城址と地名⑤その他の城址(ⅳ)

 今回は兎々呂城址を中心に紹介する。
 世田谷南部を守る奥沢城周辺を見てみると、南條氏の小谷岡城(兎々呂城・深沢城)、長崎氏の瀬田城(行善寺城)、野毛砦(等々力城)、大平砦(奥沢小)、朝鮮丸砦(大音寺)、出張り(田園調布中)等が言い伝えられているが、最初の2城以外は不確実で推測の域をでず、否定する意見もある。
 後北条氏の家臣南條右京亮重長が北条氏康のもと安房里見義弘に矢切の渡しの戦いで破れた後、夜襲に軍功をたて、深沢村の兎々呂城を賜った。そこは現在都立園芸高校のあるところではあるが、とても城を構える適地とはいえない。緩やかな斜面があるのみである。
 等々力の名前は①この「兎々呂城(トドロキと読む)」説と②源実朝家臣土岐左衞門が深沢にもともと住んでいたから「土岐の城」説と③不動の滝の音が「轟く所」説とがあるがどれかは不明である。兎々呂の読み方がよくわからないが、これをトドロキと読み、等々力の語源であると言われている。
 城の主南條右京亮は大変戦上手でいくどか感状を授けられていて、天正18年豊臣秀吉により小田原城を包囲されたときは旗奉行として騎馬侍50人、徒歩侍200人を率いて、秀吉本陣の一夜城に最も近い小嶺山の持口を守備している。北条氏滅亡後山崎但馬と名前を変え、深沢村に引き籠もっていたが、後徳川氏の御家人となり、甥の藤川正次郎が身代わりに仕官、391石を所領した。右京亮の子孫は谷岡を称し、代々深沢村の名主をつとめていた。
 この場所は台地が比較的急な角度で西の谷沢川谷底平地に落ち込み、その一部が浅い谷を作って南西から北東方向に150mほど入り込んでいるが、それ以外は緩い傾斜で築城の適地とは言い難い。末裔の谷岡宣映氏が玉石造りの道路を発見しているが、玉石は取り出して他に転用してしまったそうだ。しかし、掘ったのは宅地内だけだそうなので、延長線上を掘れば再発見は可能である。
 新編武蔵風土記稿によれば「~掻上の城なり…重長この所をこぼちて平地となし、そのまま蟄居せり。その後重長子孫は出丸の跡に移り住す。~」とあり、空堀を掘りその土を掻き揚げて、土塁や小高台を築いた城であったと考えられる。氏によれば現存する土手・並木・水豪・沼跡・排水路なども遺構の一部ではないかという。また、城の中心部は地形上から現園芸高校校舎のあるところと考えられる。
 都立園芸は明治41年(1908)谷岡慶治氏が東京府議会議長のときに創立された旧東京府立園芸高校である。現在校門前に兎々呂城址の石碑が建てられているが、それ以外に残されているものはなく、城址跡の面影もない。
 なお、近くの深沢神社は以前三島神社といい、南条(小谷岡)重頼が永禄7年(1564)伊豆の三島の分霊を勧請したものである。また、兎々呂城内 にあった満願寺は1549年に現在地に移されているので、これ以前に砦などがあったのかもしれない。
(赤松)

園芸高校付近の地形図(出典:世田谷の中世城塞)