奥沢史跡巡り⑤まちなか観光東地区コース(ⅳ)

 今回は前回の続きで⑤東玉川神社から。東玉川は昔諏訪分(又は大平分)と呼ばれ、奥沢城大平氏の開拓地区で等々力の飛び地になっていた。旧目黒線が敷かれる以前、奥沢駅南側と北側は玉川村大字奥沢小字諏訪山で あった。今も道路通称名や商店街、縄文遺跡等にその名が残され、奥沢とは関係が深い。私は確認していないが、今もなお諏訪神社が分社され、諏訪山のどなたかの庭に祀られていると聞く。現在も行政上奥沢まちづくりセンターの奥沢東地区として、奥沢西地区よりむしろつながりが多いということもある。
 東玉川は山手台地荏原台の先 端近くにあり呑川の崖線を形成し、かなり急な崖をつくり、小さな流れが2本呑川に注いでいる。
東玉川神社の 直ぐ裏側は数mの崖があり、呑川の崖線に直結している。こういう地形だからこそ、諏訪神社を祀ったのかもしれない。
諏訪神社は一村に一社という明治政府旧内務省神社局の伊勢神宮を中心とする神社整理政策により熊野神社(現玉川神社)に合祀されてしまった為、住民にとって永く拠り所がなくなっていた。
 昭和になって世田谷区発足に伴い、玉川村から独立、東玉川町となった。そこで諏訪神社再興の動きが起き、旧諏訪社敷地を得、さらに渋谷氷川神社の旧拝殿及び本殿を譲り受け社殿(寛永年間築造、区有形文化財)とし、東京府庁と協議、許可を得て野毛日枝神社を遷座、やっと東玉川神社として再建することができた。この日枝神社は寛永年間に丼伊直孝が旧近江国日吉大社より勧請したと伝えられている。なお、境内社として、稲荷神社と御嶽神社、庚供養塔が祀られてい る。

東玉川神社
東玉川神社拝殿

 東玉川神社から奥沢との境の道に出ると、角に⑥馬頭観音が鎮座している。このような観音様は密教系の住民により祀ってあるが、よく道しるべを兼ねている。道路拡張時に神社仏閣に引きとられることが多い。ここの観音様にも池上道と九品仏道と書かれている。
 馬頭観音から左手に奥沢小学校があるが、ここが伝大平砦である。しかし、どう見ても平らで砦にふさわしくない。郷土史研究家は開拓の為の番小屋があったのではないかという。
 馬頭観音からそのまま道路を渡り、奥沢一丁目に入ると、奥沢本村になる。本村というのは、等々カや川崎から多数の開拓者が奥沢に入植して奥沢新田村(現奥沢7∼8丁目、尾山台)を作り、奥沢と名乗った為、区別する為に本村とよんだようである。本村のいわれについては、本村共同墓地(現大音寺管理)入り口に建つ奥沢本村由来碑に記されている。書物に記載がないので詳しくはわからないが、元亀年間に住み着いて以来20軒程度の家が続いてきている。
(赤松)

馬頭観音
奥沢本村由来碑