奥沢の字(あざ)について その2

 奥沢本村に初めて農民が住み着いたのは 1570年、元亀元年に和田義盛の二男朝盛より8代の嫡流朝清が家臣12名と共に武蔵野国荏原の里即ち奥沢本村に来住したと伝えられている。二代長男朝澄は名主を務め、二男朝信は名主を務めた後諏訪大明神を守護神とし分家、そこを「大字(オオアザ)諏訪山」と称した。奥沢1-33-2和田家に今も残るというこれが「字諏訪山」の起こりである。江戸時代は天領となり、後に奥沢本村55石が旗本渡辺孫三郎勝(かつ)の知行地として与えられた。
 奥沢本村の字(アザ、大字の下のより小さい集落単位、小字・地区等の別称もある)は「字開平(古くは朝鮮丸)」・「字稲荷丸」だけであった。
 一方、奥沢新田村(禄高400石)は寛文2年幕府天領として奥沢村から分離独立するが、この二つの村が再び合併するのは明治9年のことになる。奥沢新田村は寛永年間(1622~44)幕府の新田開発の方針に呼応した近隣(等々力・深沢・中根・千束等)からの入植農民によって開墾された村で、戸数83軒、今も子孫が多く在住しておられる。
 奥沢の台地は雑木林、竹林等草ぼうぼうの荒れ地で、その開墾は大変困難を極めた。最初に住み着いたのは丸山台地で「字丸山」(ほぼ現1、3丁目)、その北が通り名や祭り御輿に残る「字諏訪山」、さらにその先「字沖ノ谷」迄が中丸山台地と呼ばれた。
 一方九品仏川(旧名丑(ウシ)川)の湿地帯は水はけが悪く、地味は痩せ、僅かしか収穫出来なかった。ここは後に「字沖ノ谷」と「字鷺ノ谷」に分割された。「字沖ノ谷」は、旧下沼部村(大田区)飛地(村と離れて他の村の中に存在している区域)であったが、明治22年近隣8か村が合併、新しく玉川村が成立し、旧村の区域はそれぞれ大字(おおあざ)となった時、玉川村に編入され、大字奥沢に所属した。その後字区域の変更があり、大蛇通りから北側の中丸山台地を組み入れ、低地より台地の方が多くなった。ここが昭和7年海軍村となる地域である。
 しかし、「字諏訪山」は目蒲線により南北に分断されてしまい、南半分のみが今に伝承されている。
 また、世田谷区成立時には現目黒区から旧衾村飛地「字鷺草」が「大字等々力」に編入され「字鷺草」となった。
 その時 玉川の名前は合併するとき特に目立った名前はなく皆同じくらいなので、共通して関係の深い玉川(多摩川の旧名)の名を付けた。関東大震災以後急速に東京郊外の人口が急増していくが、玉川耕地整理組合が組織されたり、地主であった旧年寄原家による耕地整理販売してできた海軍村や東横線の開通、大井町線の開通・延伸等があり、昭和7年に世田谷・駒沢町、玉川・松沢村で世田谷区が成立するに至った。この頃私の両親が奥沢駅北に東急分譲地を百坪五百円也で購入、新生活を始めた。
 明治14年の地図を見ると自由通りは奥沢神社で緑が丘方面に曲がっているが、自由が丘への道はかなり狭い。奥沢神社が奥沢の台地の東端にあり、奥沢城の東南の護りとして置かれたのがわかる。
 現在大平砦と伝えられているのは奥沢小学校ないしはその前の東玉川1-4辺りになるが、砦には相応しくない平坦な場所であるので疑問視されている。只、その直ぐ南には東西方向に呑川迄湧き水に発する浅い流れがあるので、大平清九郎が吉良頼康から諏訪分(大平分)の開墾を許可され、その一族がに入植した時の柵・館・小屋等の跡だったかもしれない。その後、大平氏の分家が現在も住んでおられるという。
(赤松)
参考資料 ①世田谷の地名下巻 ②奥沢物語 大谷修二著 ③郷土史おくさわ 奥沢神社著