常磐姫の頃以前の奥沢②

52号 2013.8.6
奥沢城址(現浄土宗九品山唯在念仏院浄眞寺)

 前回戦国時代迄の奥沢と早春のつどいレポートに鷺草伝説を書いたので、今回は奥沢城址(現浄土宗九品山唯在念仏院浄眞寺)についてまとめたい。
 浄眞寺は境内12万㎡(3万6千坪)を要し、武蔵野の面影を残しているが、これは4代将軍徳川家綱公治世延宝6年(1678年)珂碩(かせき)上人が開山したとき、廃城となり荒れ果てていた奥沢城址を幕府から賜った為で、昔の様子を良く保存することができたと言える。現在は公園予定区画となっている。
 現浄眞寺は旧奥沢城の内曲輪をそのまま寺域にし、本丸、二の丸、三の丸等に相当すると思われる区域に別れている。
 一方外曲輪にあたるところは、言い伝えによると産業能率短期大学の辺りに北門が在ったと言われている。北門までの間は中丸、下中丸、北側の湿地帯は台場、影谷、山下、城向、鷺の谷、南側の台地から国分寺崖線にかけて城前、千駄丸、大坊野、原、北原、東原等の古地名が残されいる。
 特に中丸、城向、城前、千駄丸等はここに城があったことを伺わせる地名である。千駄丸には砦がおかれたといわれている。多くの物資を多摩川で運び、荷揚げの木材や荷物を一旦千駄丸に集め、奥沢城や世田谷城に運んだのではないかと考えられている。
 近くには宮入の渡し、等々力には野沢の渡し等が古くからあるが、室町時代には国分寺崖線近く迄多摩川が蛇行していたと考えられ、下丸子駅近くの光明寺池、八丁土手、明神池跡はその名残である。
 さて、内曲輪を見てみると、今の浄真寺と殆ど重なっている。参道の両側に空壕があったようだが、幅2間、深さ9尺と狭く、奥沢城のものとは思えない。古老の話では後世に掘ったものだという。
 総門をくぐると広い場所にでるが、三の丸ではないだろうか。右手東側が東門で鷺の里、九品仏緑道、自由が丘に通じている。中学校時代下校時に友人達と自由が丘経由でおしゃべりしながら帰った道だ。
 左手西側山門の先が本丸で、山門南側に土塁跡が残り、奥沢城址の碑が建つ。この土塁は南側、西側、北側、東側迄続くが、東側は大部分削平されて今はない。南側土塁の外、現在のクロマツの通路全体と西側の土塁脇も道路の下が堀になっていたと考えられるが、北側は土塁が二重になっている。墓工事の折、堀跡が柔らかいロームの為墓が沈むので、全部掘って支え直したと石材やさんの話がある。堀の断面形は薬研堀状で幅5間、深さ2間であった。
 北側の土塁を横切ると墓域になり、昔は二の丸と聞かされていた。墓域の北側は5㍍程度の崖線になっている。崖下は奥沢の底無したんぼの湿地帯であったが、今は民家や公園、緑道等になっている。九品仏池は近年東急が掘ったもので奥沢城とは関係ない。中学校時代八幡中の校庭南東側は普段からぬかるんでいて近くに溜池があった。九品仏川跡はそこから南下し、大平農場脇の緑道となり、やがて等々力駅近くの逆川跡に繋がり、矢沢川にそそぐ。
 居館跡は本丸中央の本堂辺りと思われるが発掘はされていない。八幡中学校校舎南側壁いっぱいにタイル画で鷺草伝説が描かれており、墓域からも最近は上半分だけが見られる。遠くに北門があった産能短大が見え、武蔵野台地荏原台が広がっている。
(赤松章夫)

浄眞寺 九品仏(江戸名所図絵から)
浄眞寺配置図(世田谷の中世城塞から)