奥沢城址の歴史的考察と土塁の調査①

 淨眞寺周辺は世田谷区において区遺跡番号167奥沢城趾、同275城前遺跡として登録されている。
 城前遺跡は以前から奥沢台遺跡の散在遺跡として認知されていたが、主に淨眞寺北側の墓域辺りに縄文早期・後期の土器破片がみつかっており、寺域の為発掘調査は行われてはおらず発見されてはいないが、数軒の住居跡が在ったと推定されている。ここは奥沢台遺跡と1㎞以内の距離なのでその子ムラであり、諏訪山遺跡等と4つの遺跡で一つの村落を成していたと考えられる。縄文後期になると集落が低い段丘に移って行く傾向がある。食料が植物中心から河川漁労中心へ移行した為であろう。
 なお、九品仏淨眞寺が中世城郭であったことは、『新編武蔵風土記稿』『江戸名所図絵』に俯瞰木版画を添えて記されている。木版画は一部誤認が認められ正確さには欠けるようである。
 奥沢城址については近代になり、『玉川村史』『武蔵野歴史地理』にも触れられているが、図が実測されるのは小室栄一氏による『中世城郭の研究』(1965)が最初である。ここには一辺140㍍の方形土塁が記載されている。
 また、三田義春氏『世田谷の中世城塞』(1979)では地理的側面を考察し、南側を大手門、字千駄丸を場外防砦と考えた。産業能率短大付近が北門だったとか、字中丸の名があったのも外曲輪を想像させる。この後『日本城郭大系第五巻埼玉県・東京都』に奥沢城として要約紹介されている。
 さて、城址の証として唯一残る土塁に関しては過去1984年に平板による簡易トラバースで実測及びハンド・オーガー(3㍍)とボーリング棒(2㍍)による調査が1回実施されただけらしい。常緑樹が多くトランシットは使えなかったようである。これは区内全域の社寺の総合調査の一環として考古学的調査を行ったものであり、詳細は『淨眞寺文化財綜合調査報告』に記載されている。
 土塁の長さは約150㍍、高さはおよそ32~34㍍である。上幅は3~6㍍、下幅は11~23㍍、海抜は約32~34㍍である。一部石積みが見られるが、南側土塁は比較的原型を留めている。それに引き替え、東側は建築物で一部削られ、西側は塀や道路により削られ、北側も墓域によりかなり変形させられている。いずれもお椀形をしている。一部低くなっているところは通路として使われていた為である。南側の上面は子ども達の遊び場にもなりかなり踏み固められている。南西隅が一番高く、34.3㍍ある。地面からの比高も内側で3.5㍍、外側で4.4㍍ある。九品仏三堂の裏側は墓域化が進んでいる。北西隅が最も変形、一部車庫化している。北東隅は石垣になっているが、それ以外は比較的原型を留めている。
 また、コーナー部分が直線部分より幅が広く高くなっている。台地の地形を利用して築城したものと思われるが、もしかすると直線部分には木製の塀や柵が作られ、四隅には物見櫓などが建てられていたかもしれない。
 なお、土塁の傾斜角は北辺・南辺の直線部内側上端近くが20~25度、下端近くが10~15度、外側上端近くが25~35度、下端近くが10~20度。東辺・西辺は30度前後と一定である。これに対して四隅は内外共に約25度である。
 これらのことは小室栄一氏によって諸城址と比較研究されているが、石材を使用する事が一般的でない時代に突き固めて作り出せる限界は45度とされている。上方から土を落とし自然に積もる限界も45度であるといわれている。
(赤松)

浄眞寺鐘楼の背後に南側土塁
奥沢城址:出典 三田義春「世田谷城の研究」