奥沢近辺の城址と地名の謎① 

 奥沢城址と鷺草については色々書いてきたので、今回は少し当時の周辺の状況に目を向けてみたい。 先ず、住所的には『武蔵野国荏原郡菅刈の荘世田谷』と呼ばれていたようである。菅刈のしょうというのはそのように記録はされているが、どのような内容なのかはよく分かっていない。地名としては必要無いと思われるが、荘園などの名残りかもしれないと思っている。当時の武蔵の国では大和・奈良・平安時代よりの呼び方が続いていた。多摩郡、豊島郡、荏原郡が大きく、後は小さい郡が沢山あった。現在もあちこちにその名を残している。世田谷というのは「瀬田の谷」からきたと伝えられている。
 その他古地名は多いが、当然各集落毎に呼び名があったであろうと考えられる。ただ、必ずしも全てが残るわけではないし、名がついた時代も長きにわたっている。詳しくは『世田谷の古地名(上・下)』を読むとよい(各図書館に在)が、主として江戸時代の地名である。室町以前の記録は少なくなる。
 鷺草関係では小字(コアザ)名として奥澤村に鷺の谷が知られているが、伝説は九品仏川(旧名丑川ウシカワ、古くは逆川サカガワ)をはさんで、奥沢側と目黒区衾村に伝わっている。大字谷畑(或いは小字谷畑)小字鷺草にも伝えられていた。衾村の水田にも鷺草が咲いていたようである。中心は吉良家の菩提寺の一つ東光寺で、都立大学駅近く、旧都立大学法経学部跡地に接している。目黒区側の伝説については、『通俗荏原風土記稿』に書いてあるが、現在は目黒区の『郷土の文学資料』に載せられているらしい。『目黒区大観(村上三郎編著昭和10年8月16日発行目黒区大観刊行会)』に詳しいが私はまだ目にしていない。奥沢城址と鷺草が風景資産に選定されたら目黒区の図書館で探してみたい。
 調べて行く中、面白い発見があったが、未だ確認は取れていない。それは奥沢中学校と大音寺の山は小字「開平」又は「朝鮮丸」と呼ばれている.
「朝鮮丸」については語源が2説あり、「開平」の語源は全く分かっていない。 ところで、大岡山は昔旧衾村の平根タイラネに属し、4小字から成っていた。目黒区全体が品川郵便局の集配区域であった当時の小字表に「碑衾村・衾・大官山」と出ていて、「オホカンヤマ」と書かれている。大岡山は昔「オホカンヤマ」と呼ばれていたらしい。旧衾村を貫流し、「平根」から世田谷区と大田区の間に呑川が流れ、細長く突入している低地がある。大音寺先では敷地の中を区界が走っているように見えるので、かなり入り組んでいる。同じように呑川駒沢支流にも八雲と深沢の境界が近い場所がある。「平根」の小字名は「平南大岡山」「平北大岡山」「平鐵飛」「平中里」であり、呑川に接している大音寺山(大音寺砦があったとも伝えられている)を「平根」の農民が開拓していったとすると「開平」という言葉が生まれても不思議はない。だが、低地ではないし。無理もあるので想像の域をでないが、考えるだけで楽しい。玉川地区は記録が少なく、はっきりしない事が多いので想像するだけで歴史に興味が湧いてくる。
 尚、『名残の常盤記』は数十年前の某銀行自由が丘支店発行文書に依ると、地に潜んだ吉良残党の間で語り繋がれ、江戸時代に一つの説話文学として体系化されたようだ。文体は明らかに平家物語や古今集から借文し、はじめは琵琶の伴奏で語られ、寺院の開帳、鎮守の祭礼の場で演出され、初午の日などに五人組の頭などによる素読も行われたと言うことでる。
(赤松)

左:奥沢中学校 右:大音寺に続く住宅