奥沢近辺の城址と地名の謎③ 世田谷城址( ⅱ )

56号 2014.8.4
世田谷城址(ⅱ)城郭構造、土塁、堀

 さて、世田谷城址の城郭構造をみてみよう。城址として土塁が残されているのが、世田谷城址公園と隣の東京都公社豪徳寺アパートであり、土塁・空堀井戸・土坑・溝・釜跡等が現存している。いくつかの曲輪(郭)は区画がはっきりしていて、世田谷城址公園として既に整備されている。但し、現在のような姿の石垣は当然のことながら当時は存在していないと考えられる。
 世田谷城址公園は、入口に設置されてある石碑を読むと、世田谷区が東急の前身である玉川電気鉄道より所有地の寄付を受け、公園にしたようである。世田谷城址では豪徳寺の第1次調査に続いて第2~6次調査及び立会調査が行われている。東京都公社豪徳寺アパートの隣にあったパナソニックの社宅は他社の所有となり、2005年に共同住宅建築工事の届けがなされた。東京都旧跡である世田谷城址範囲内であるので、現状変更届を出させ、立会調査を実施、建物基礎に依る攪乱が標高33mに達していることを確認した。現地標高は36mである。その後、堀の断面を確認、建設工事に先立ち第7次調査が必要になった。
調査では重機による表土除去後、井戸・地下式坑・堀・溝・土抗(主に墓)・ピット群等を検出した。堀に関しては、安全上掘削深度を稼げず、トレンチに頼った。これまで推定されていた「薬研堀」ではなく、断面が逆台形の「箱堀」であり、一部は40cmのレベル差があるので「障子堀」の可能性がある。
 井戸は10を数え、帯水面は-3mと浅い。土師質土器等の遺物が収納コンテナ20箱分出土していて、調査後郷土資料館に保管された。およそ13世紀後半~寛永13 (1636)年の間のものと考えられる。 尚、吉良氏以前の土抗は、禅宗の寺の周辺に多い武士のものであり、火葬施設もあり、墓と考えられる。吉良氏の弘徳院(文明12(1489)年創建、世田谷城落城の翌年天正19(1591)年、勝光院検地帳に記載があり、吉良氏退去後も存続)のものであろうと推測される。『新編武蔵国風土記稿』によれば、当初は臨済宗であったが、天正12(1584)年曹洞宗に改宗している。その後、寛永15(1638)年に井伊家が大檀那になったと伝えられている。万冶2(1659)年豪徳寺と改称した。
 この調査は世田谷城址の本格的調査としては初めての発掘調査となった。尚、この土地の所有者は現在宗教法人豪徳寺となり、全面的協力のもとに埋め戻され埋没保存されている。
 一方、東京都公社豪徳寺アパートについては実情を私は未だ把握していない。元々4棟が建てられていたが、現在は3棟残っている。今も住民が暮らしているので、直ぐ発掘というわけにはいかない。
 なお、アパート敷地内で豪徳寺の参道沿いに見える土塁は二ノ郭と申(サル)郭の境界に当たる。吉良館があったと考えられる本郭は豪徳寺本堂があるところで、墓域を含む寺域は小さな土塁等で7つの郭に分かれていたとみられる。
 豪徳寺山門前にアパート敷地に対し大きく口を開けた個所があるが、私有地なので縄が張ってあり、入るには許可が必要である。一番奥に土塁が長く横たわって見えるが、かなり整形されている。この土塁はそのまま金網の境界線を越え、東南側の世田谷城址公園土塁に続いている。世田谷城址公園側も奥の方は整備されておらず、危険な為立ち入り禁止になっている。なるべくこのまま原状を保存して欲しいと考えている。その中に昔、京都より運び、植えられた御所桜が咲いていた場所がある。
(赤松章夫)

土塁と堀跡(東京都公社アパート敷地付近、世田谷城址公園のずっと奥にあたる)
土塁(公社アパートと豪徳寺参道に沿って現存)