おくさわ今と昔『昔』

奥沢懐旧
 奥沢2丁目 畔柳 恒春

第10号 2002.12.17  奥沢に移ったのは大正15年3月末で、76年昔のことである。小学校6年生になる時で、中学受験までの一年間原宿の小学校に電車通学をした。従って今日思い出を語り合える友達もなく、往時の記憶はおぼろげに残っているに過ぎない。  地名は当時の東京府荏原群玉川村大字奥沢字沖の谷から東京市世田谷区玉川奥沢町1丁目、つづいて東京都に変わり、さらに奥沢2丁目となって、その後現在の住居表示となった。巷間奥沢といえば海軍村のあった所といわれるが、海軍士官の家が比較的多かった為であろう。私の父も海軍士官であった。関東大震災後、東京市内に貸家が少なく、東京勤務の士官が住宅に難渋したので、海軍当局が低利の貸付で持ち家を奨励する制度を設け、一方海軍大学校の目黒移転の計画もあり、地価も程々であり、交通の便も相まって奥沢が選ばれたのではないか。当時2丁目の海軍村には30数戸程あったが、戦災…

不便だったけれど
 奥沢2丁目 勝賀瀬 佳久

第11号 2003.3.31  私は、この地で生まれ、途中15年程地域外で生活しました。  物心が付いたときには、空襲の真っ最中でした。夜、見上げた空に探照燈の光の筋と、光るマッチ棒を整然と並べた筏のような光の集合体が漂い、ガソリンスタンドの匂いが満ち、木にはアルミ箔のテープが絡み付いている光景が記憶に残っています。  終戦で東京に戻り、我が家でもにわとりを4~5羽位飼い、南側の道路端にはささやかな畑がありました。小麦が小さな穂を付け、麦粒を噛んでいるとガムのようになるので、小麦は子供たちの口に消えていきました。夏はニイニイ蝉、アブラ蝉がうるさく鳴き、ミンミン蝉とヒグラシ蝉の声は彩りを添える位でした。ご近所にはヒマラヤ杉やシュロ、欅や杉の木が誇らしげに聳え立っていました。  ギンヤンマ、オニヤンマといった大型のトンボも多かった。池のある庭が多く見られ、九品仏には大きな池があり、九品仏川が呑…

昔のこと
 奥沢2丁目 浮田 基信

第12号 2003.6.22  私は大正13年の暮、小学校の1年生のときに今の土地に引っ越して来ました。前年3月には目蒲線が開通した直後でした。当時奥沢駅の南側には商店も並んでいましたが、駅から北へ向かっては、左側は神社までは広い明電舎の野球グランドが占め、右側は車庫、変電所に次いで蕎麦屋と文房具店が並んでいただけだったと思います。3学期から八幡小学校に通いました。教室は二階建校舎に1,2階合わせて6教室だけで、各学年1学級でした。別棟の平屋に職員室、裁縫室と標本室があり、標本室には人体模型などがあって怖かった記憶があります。  家の近傍では一戸の敷地面積は概ね200坪(600㎡)ぐらいもありましたが、家は殆ど平屋で、堀は主にひばの生け垣でした。当時各戸に通じていたのは電気だけで、水道がなかった、大概どの家も井戸を堀り、大きなタンクを高く設置して家の中に配管していました。我が家では台所に手…

砂利道と黒いゴミ箱
 奥沢2丁目 中 悳也

第13号 2003.10.12  今では土の道など緑道以外では見つけるのが難しいが、昭和30年代のはじめ親の代のとき当地に引っ越してきてしばらくの間は、わが家の前の道路は砂利を敷いた土の道であった。勝手口の木戸の横にはコールタールのにおいがする黒い木のゴミ箱が鎮座していた。暑い夏の午後、どこかから氷屋がのこぎりで氷を切る音が涼しげに聞こえてくる時代であった。  ご近所でも大きな木が多く、隣家にはイチョウの大木がありわが家にも数本のヒマラヤ杉が生け垣に沿って立っていた。庭には泰山木や梨が白い花をつけた。北隣りは空地で風呂場の窓ごしに雑木林が眺められた。自由が丘の駅に向かう角をまがった道も砂利道で、大雪の降った日には庭の竹が雪のおもみに堪えかねて道にしなだれかかり、行く手をふさいでいたことが思い出される。大きなスダジイが道路におおいかぶさるようだった曲がり角のお宅も最近モダンな家にかわり、界隈…